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「人は見ている」という言葉が母の昔からの口癖でした。絶対に誰かが見ている。日常の中に静かに存在する侘しいものたちの傍を通ると、何かに見られているような感覚を覚えます。八百万の「存在の目」、母の言う「誰か」が居るのではないか。こうした「存在」を拾うことはできるのでしょうか。
数年前、出身地である香川の島にて誰もいないはずの空間で何かの視線を感じました。辺りを見渡すと、目線より高くそびえ立つように等間隔に並んだ排水口が水を垂れ流しながら静かに佇んでいました。それこそが私を見つめる目だったのです。その光景と感じた視線が忘れられず、以降作品では排水口の円を仏教やキリスト教に見られるような光背に見立て自分よりも高次元に位置する存在として表出させます。「目」は私を見つめる「誰か」であり、私を見つめる「私」でもあるのです。
何層にも石膏を重ね、顔料と墨を置き、洗い出しと研ぎ出しを繰り返し、磨く。足し算と引き算を繰り返していくうちに私の内にある何かと繋がる感覚があります。こうした意識下から表出されるイメージは、私にとっては禅的であり、身体行為による「社会との関わり」です。それは無意識の「存在」を拾い上げる行為なのです。
作品を作り上げることは祈りの行為と同じです。その祈りの先は、奈良時代や平安時代の人々のような仏ではなく、私自身の良心にあります。
高畑 彩佳
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